「ずっと国語はできていたのに、高学年になって不得意になったんです」とのご相談をよく受けます。

これまでにその子が蓄えた語彙力や知識、カンやセンス(それも実力のうち)では、その文章が読めなくなったということでしょう。

当たり前のことですが、読解の文章は学年が上がるとともに、難しくなるものです。

とくに説明的文章では、使われる漢字も多くなるし、表現も難しくなる。

それだけでなく話題そのものが、身近で具体的なものから、抽象的で馴染みのないものに変化します。

文章に書いてあること(事実)がわかれば解けるという説明文から、筆者の考え(主張)を読みとらねばならない論説文に変わる、ということもあります。

事実は具体性が高いので子どもにも伝わりやすいけれど、主張は抽象度が高く子どもにはわかりにくいものです。

例を見てみましょう

小4向けの文章

動物の体と形と気候との間には、おもしろい関係がある。いっぱんに、寒い地方にすんでいるもののほうが、暖かい地方にすんでいるものに比べて・・・(増井光子「動物の体」より)

読めるとは、具体的に思い描けることです。

この文章は子どもにとって身近な存在である動物が話題なので、小学生でも抵抗なく読めるはずです。

またこの程度の文章であれば、寒い地方に住む動物 VS 暖かい地方に住む動物 という対立構造も簡単に見つけられるでしょう。

(もしこの対立が分からないのだとしたら、対立という概念自体を理解していないので、小1から勉強し直しです)

小5(前期)向けの文章

最近、料理を趣味とする人が増えたが、初心者とプロとで一つ大きく違っていることがある。(中略)初心者の場合は技術からの発想である。最初に手持ちの技術と設計があり、それに必要な資源を求める。これに対してプロのほうは、資源からの発想というべきであろう。(加藤辿「資源からの発想」より)

パッと見で漢字が多いことにお気づきでしょうか。

学年が上がるにつれて熟語の割合も増えるため、漢字の苦手な子は読みづらいと感じます。

また「手持ちの技術と設計」「資源」など、耳慣れない語彙に戸惑う子も出てきます。

ただし、初心者 VS プロ という対立構造を見出すことは簡単ですよね。

問題はそのあと。「技術からの発想」「それに必要な資源を求める」のような大人っぽい言い回しが理解できるかどうか、です。

これがわからないと、言いたいことがわからない、つまりこの文章は読めないということになります。

小5(後期)向けの文章

兼好法師は『徒然草』の中で、「そのものにつきて、そのものを費やし損なふもの、数を知らずあり」といい、「君子に仁義、僧に法」などを挙げているが、書家の書、茶人の茶も、その中に入るであろう。別言すれば、技芸化されたところに堕落ははじまるので、お茶は本来そういうものではなかったはずである。ではどのようなものか、ひと口にいえば、人間同士の付き合いにつきると私は思っている。(中略)一期一会とは、私流に解釈すれば、結局自分自身と出会うことである。(白洲正子「風姿抄」より)

中学受験は小5の二学期からが勝負、と言われるのがよくわかります。

国語の文章も抽象度が増し、普通の子どもは考えたこともないような内容がテーマとなるのです。

いくら注釈があったとしても、技芸化などの言葉は小学生の頭にすんなり入ってきてはくれません。

その上「茶道も知らない、徒然草も初めて聞いた」では、筆者の言いたい「自分自身と出会うこと」は、なかなか理解できないでしょう。

小5でこれですから、小6の文章の難度は容易に想像できることと思います。

小6向けの文章

観念が現実を作っているのであって、その逆ではない。思いや考えが状況や環境を作り出すのであって、状況や環境によってその思いやその考えになるのではないということです。だから、この場合では、理想こそが現実を作っている。理想を失わずにいるのであれば、それはすでに現実であるということになるね。(池田晶子「14歳からの哲学」より)

「観念」という難語は、「思いや考え」という言葉に言いかえられているので、それに気づけば読めるはず。

論理的に読む習慣があれば、このイコール(言いかえ)の関係を見出せます。

この文章は、指示語の多さと回りくどい表現が子どもの理解を阻むようです。

「理想を失わずにいるのであれば、それはすでに現実であるということ」あたりで「???」となります。

小5小6に国語を学ぶことの必要性

このように、小5の二学期から読解の文章は、グッと難しくなります。

字面を追って文字を眺めるような読み方では、到底太刀打ちできません。

「読ませて、解かせて、答えはココに書いてあるよ、と説明する」というような指導では、読めるようにはならないのです。

子どもたちに教えるべきは、論理的な読み方です。

もちろん小1~小4のあいだにも、論理的な読み方を教えます。

参考記事【低学年のうちに論理力を!】

でも、難しい文章を読んで理解するには、精神的な成熟が欠かせません。

小5~小6にかけては心身ともに著しく成長する時期であり、この時期に良質の文章を大量に読むことで、急激に理解の深まる子を何人も見てきました。

我が子を指導した際にも、小6の夏休みに小説の主人公の心情や日本文化の神髄など、これまで理解できなかったものが一気に腑に落ちた瞬間がありました。

子どもに読みを任せていたら、なんとなく読めた経験を積んでいたことと思います。

楽しむ読書であればそれでもいいのですが、読解となるとそうはいきません。

論理的な読み方やラインマークの仕方などを授けることで、深く正確に読み解けるようになるのです。

難文の読解は「今の自分の知的枠組み」を打ち壊して、「さらに大きな知的枠組み」を獲得する作業です。

これまでに身につけた論理力という武器で、難文を攻略し、自分自身の知識と教養をさらに高めていくのです。

それが知的に成長するということです。

この大変な作業を、読書をすることで自分一人でできる子もいれば、できない子もいます。

国語教室ミルンでは、論理力を土台として文章を読めるようになるための授業をしています。

小5~小6は、国語を学ぶ大切な時期です。

自分自身のこと、自分以外のこと、世の中のことを意識できるようになり、哲学的にものを考える準備が整う時期でもあります。

この時期に中学受験が重なると、理科や社会など手っ取り早く点数につながる科目の勉強に追われがちです。

わたしも我が子の中学受験を経験しているので、よくわかります。

でも、テストに追われ目先の点数や偏差値にこだわりすぎて国語をおろそかにすると、あとで困るのは子ども本人です。

文章を読んでも理解できない、深く思索することができない、語るべき意見を思いつかない、では本当に困るのです。

論理力を駆使して文章を読む能力は、国語に限らず他の科目でも必ず役立ちます。

ぜひこの時期に、良質の難しい文章を丁寧に読んでしっかり理解する時間を、週に1時間でもいいので確保するようにしてください。

自分の力で難文を読みこなせるようになった小学生は、もれなく国語に自信を持つようになります。

そして、中学生になっても文章を読むことを楽しいと感じて、さらに難しい文章を読めるようになっていきます。

オンライン国語クラスに集う中高生たちは、誰に強制されるわけでもなく、自らの意思で文章を読み解こうとします。

週に一度でも小説や論説文を丁寧に読む時間を持つか持たないかは、人の成長に大きな違いをもたらします。

参考までに、大学受験生向けの文章

京都大学・二次試験で出題された文章の抜粋(文系国語2018年)

生きた人間を「からだ」と「こころ」で対立させる二元論的把握は、視野を転じて、言語記号の成り立ちという問題に対しても、アナロジカルに適用することができる。言語記号は、一定の音声形式と意味とから成り立っている。人間の「からだ」が「こころ」の器であるなら、音声形式もまた意味の器にほかならない。(中略)一般に意味論は、意味を客観的認識の対象として、当の言語主体から切り離しすぎたうらみがある。いま、語の意味を「こころ」という和語によって認識しなおしてみるとき、語の意味と言語主体の心的活動は、確実に一本のキイ・ワードで架橋されることになるであろう。
(佐竹昭広 「意味変化について」 より)

問一「語の意味と言語主体の心的活動は、確実に一本のキイ・ワードで架橋されることになる」とはどういうことか、説明せよ。

S台の解答例
言語記号の音声形式と意味とに人間の体と心の二元論的把握を適用して類推すれば、「こころ」という和語が語の意味と人間の心的活動との関係性を強く示唆するということ。

K塾の解答例
語の「意味」が、かつて「こころ」という和語で表されていたという事実は言葉の意味が人の心の動きと結びついて成り立つことを認識させてくれるということ。

娘の解答例(入試当日の記憶を頼りに再現してもらいました)
語の意味は、客観的認識の対象として、人の心的活動から完全に切り離されているというわけではなく、言語主体の心的活動と適切に対応しており、密接な関係にあるということ。

娘の記憶による再現解答は、自分の言葉で書ききれていないきらいはあるものの、『語の意味人の心的活動と密接な関係にある』点はおさえてあるため、いくらか得点はできているはずです。

ただし設問にある『キイ・ワードで架橋される』という部分が説明されておらず、『こころ』というキイ・ワードも盛り込まれていないため、大きく減点されていることでしょう。

京大に実際に提出したのはどのような解答であったのか、またいかほど減点されているのかが、国語講師としては気になるところです(本人としては、今となってはどうでもいいことのようです)。

それはさておき、「しろくまちゃんのほっとけーき」をたどたどしく音読していた幼子が、20年弱を経て、「語の意味人の心的活動と密接な関係にある」ことを理解するまでに言語能力を発達させたことに感動を覚えます。

点数や出来不出来にとらわれることなく、自分の知的枠組みを拡げるために国語を学ぶのは、楽しいことだと思います。

読書感想文を書くための読書よりも、自分の好きな小説家の作品を飽きることなく読み続けるときの方が、楽しいと思えるのと同じように。

生徒さんたちには、テストで点をとるための注意点も伝えてはいますが、それは 「教室で国語を学んで良かった!」という思いをまずは味わってもらうため。

本当は、「国語の勉強をしてみたら、読める文章が増えて、世の中のことがもっとわかるようになって、新しい言葉を知った分だけ自分の世界も拡がった!」ことに気づいてほしいな、と思っています。