過去記事を読み返すと、数年前の自分が考えていたことを思い出すことができます。
そして今の自分の思いとのギャップにしばしば驚かされます。
たとえば、数年前に投稿したこちらの↓のブログ。
6年前のわたし
【嫌われる勇気】を読みました。
「ちょっと、そこまでは徹底できないなぁ・・・」
と思うところもありながらも、おおむねの内容には納得して、さっそく実生活にアドラーの考え方を取り入れて実践しています。
そして、いつものように家族にはうっとうしがられています。
「なるほど!なるほど!」と頷く点は多々あれど、いちばん感銘を受けたのは、やはり
『課題の分離』です。
我が子と言えども、親とは別人格の対等な存在のひとりの人間。
そんなことはわかってはいるけれど、
とくに子どもが幼いうちは、『子どもの問題』がダイレクトに『母親の問題』となりやすく、『この子の問題なんだから』なんて、離れたとこから冷静に見ているだけなんてなかなかできません。
「親の顔が見てみたい」とか「この親にしてこの子あり{悪い意味で)」などと言われるくらいなので、母親が神経質になるのは無理もないと思うのです。
私なんて、高校生の娘の「勉強しない姿」をみていると、「文系志望なのに浪人したらどうしよう。」と先のことを考えて不安になったりします。
さすがに口に出しては言わなくなりましたが、つい不安感から『最悪の想像』をしてしまうこともあります。
そんな親の不安感を娘が知ったとしたら、「うるさい、余計な心配だよ、ほっといて」と思うに違いありません。
そうです、ほっておけけばいいんです。
『勉強しない』結果を引き受けるのは、『子ども』であって、『親』ではありません。
でも、どうしてこんなに気になるのでしょうか?
それは、子どもの問題を自分の問題にすり替えて捉えているから。
何ごとも計画的にことを進めるのが好きな私は、先が見通せないと落ち着かないので、どこかに属していない『浪人』という状態が気持ち悪いのです。
心の底では、浪人してまで志望大学を目指すのはすばらしい!とは思っているのですが、経済的なことや本人のモチベーションなどを考えて、安心していられないだけ。
国立大学に落ちて、浪人して私立を狙うことになったらどうしよう。
しかも東京で下宿生活、おまけに1年間の海外留学までしたら、1500万円くらいかかる。
老後の世界一周旅行という私たち夫婦の夢が夢のままで終わるかも。
私だってもう一回大学に入学して学びたいと思っているのに、そのための資金が子どもの教育費になってしまう。
このように、親子は身近な存在だからこそお互いに影響を与えあう度合いも大きいので、『課題の分離』がしにくいのです。
それにしても、私自身は子どものころから、やりたいと思ったことを誰にも相談せずにやり通してきました。
両親になにかを止められたり、口出しされた覚えはまったくありません。
とくに高校生になってからは、「私を信用してくれているんだな。ぜったいに親の信頼だけは裏切らないようにしよう!」と思っていました。
夫も子どもたちも、私の仕事が忙しくなり家事がおろそかになっても、何もいわないし、むしろ協力してくれる。
それなのに私は、子どもの振る舞いを気にしていました。
悪かったなぁ、うっとうしかっただろうなぁ。
信頼されていない、と感じていただろうなぁ。
心から反省しました。
【嫌われる勇気】にあるフレーズ
『結果を引き受ける人の課題』
『強制は反動となる』
『見守って援助するだけ』
などの言葉が心に刺さります。
つまり、親の課題は『子どもを信じること』のみ。
ふだんの姿を見ていると、「不安要素が多すぎて信じられない!」と思ったとしても、無理やりにでも信じること。
今のわたし
6年前に【嫌われる勇気】を読んでから、たしかに私の考え方は変わり、親子関係も良好になりました。
『親の期待のために子どもは生きているのではない』
自分自身が『自分の課題』に真摯に向き合ってこそ、人は自分の人生を生きたと思えるのでしょう。
親が子どもの人生に口出しして、子どもの問題に立ち入りすぎるのは恥ずかしい行為なのです。
そんな当たり前のことがわかるようになるまでに、何年を費やしたことか。
育児に関して私が無知過ぎたのでしょうか。
でも、たいていの人は育児を習うこともないまま親になります。
誰でも、我が子が経済的・精神的にひとり立ちできるようにと願いながら子どもを育てています。
だからこそ、ついつい一生懸命になりすぎてしまいます。
心配するあまり、過干渉になってしまうのだと思います。
それが、結局は子どもの足かせになってしまうと、心のどこかで感じていながら。
そんな疑問を抱き始めた時期に【嫌われる勇気】を読むことができたのは、幸運でした。
長女の国立一本に絞った大学受験も、不安に感じていた「文系浪人」も心から応援できたし、
「浪人の経験は無駄にならない」という巷間の噂は、本人も親もその通りだと思えました。
すでに成人した娘たちが人生の岐路で選択することになる道も、信じて見守ることができます。
育児とはそういうものなのかもしれません。
手とり足とり教える時期を経て、手助けをするさじ加減に悩み、そこを通過すればただ見守っていればいい。
だんだんと親の気持ちは解放されて穏やかになっていく。
そして、大学生活の後半2年間はコロナ禍に見舞われながらも、就職活動を終え、卒論を書き、来週には無事卒業式に臨みます。
実家を離れ京都で一人暮らしをした4年間で得たものを携えて、今後は社会人として東京で生きていくことになります。
彼女たちが自立した今、もはや我が子という気がしなくなりました。
いつのまにか、私の相談にも的確に答えてくれる、頼りになる存在に成長してくれた自然の摂理に感謝したい気持ちです。