この記事は、2016年10月31日のブログの再掲です。
娘の言い分
毎朝、母が焦るんですよ。
こんな時間に家にいて、学校に遅刻しないかって。
大丈夫です、たいていは間に合います。
たいてい、と言うのは、50回のうち1回くらいは突発的な事情で遅刻するかも知れないと言うことです。
登校しようとしたら運悪く自転車がパンクしていたとか、体操服を忘れて家に取りに戻ったとか。
でも、そんな「予定外のコト」なんてそうそう起こるものではないから、たいていは遅刻しないのです。
勉強に関しても同じです。
私は、テスト前の勉強も宿題も、ギリギリに始めるんですよ。
一夜漬けとか徹夜とかは、得意な方ですね。
それで間に合わないかって言うと、そんなことはない。
素晴らしい結果をだせるわけではないけれど、とにかく期限には間に合うわけです。
さすがに高校3年生にもなった娘に向かって、親があからさまな言葉がけをすることはありません。
定期試験や課題への興味はすっかり失ったようで、今では試験期間がいつなのかも知らないようです。
が、遅刻に関してはいまだに気になるようで、焦りの匂いをプンプンさせるわけです。
それは、「あと20分で8時だよ」「もう8時15分だよ」といった独り言のようなつぶやきにあらわれます。
私が不思議に思うのは、母が「間に合った」という結果よりも「毎朝ギリギリに家を出る」過程ばかりに注目することなんです。
たとえ結果は同じでも、ギリギリに間に合わせた人よりも、前もって準備をし余裕をもってコトを進める人の方が評価される。
これって、理不尽だと思うのです。
私は時間的にも精神的にも追い込まれて初めてヤル気になるタイプなのです。
過程ばかりに注目せず、結果もちゃんと見てほしいと思います。
母の言い分
遅刻に関して私がアナタを急かすのは、アナタだけの問題ではないからですよ。
とくに自転車通学の場合、急ぐあまり事故に遭わないかと心配するから。
それは、自転車で誰かを跳ね飛ばしてしまうのでは、アナタが車に当たってしまうのではという加害者と被害者両方の心配です。
自分の子どもがちょっとしたケガをするとか、遅刻するとか、それだけだったらいいんです。
でも、他人に迷惑をかけることになるなら、人の命とアナタの命がかかわってくるとしたら、それはアナタだけの問題ではなくなる。
だから、ギリギリの時間になって家を飛び出していくアナタが心配なのです。
実際、子どもが小さいうちは、親が子どもの責任を負うことが多いんですよ。
集団登校に間に合わなかったら、親が学校に連れて行く
提出期限のある書類を忘れたら、親が届けなければならない
母親にも予定があるのです。時間的にも精神的にも子どもに振り回されるのはゴメンです。
朝の忙しい時間帯に「宿題ができていない!」と子どもが騒いだら、誰しも嫌な気分になりますよね。
「だったら、どうして前もってやっておかなかったんだ!」と文句の一つも言いたくなるわけです。
たとえ「自分の責任だ、自分が恥をかけばいいんだ」と思っていたとしても、です。
そういう態度を貫いたとしても、心は多少なりとも波風が立つんです。
「何も言うまい、見守ろう」とグッとこらえるのも、意外と労力が必要なのです。
わたしはアナタが小学生だった時に、忘れ物を届けることもしませんでしたし、宿題のことで気をもんだこともありません。
でも、わたしが「何ごとも余裕をもってやるタイプ」であるために、中高生になってからの娘の「ギリギリ直前にやる」態度に少なからず苛立っていたことは確かです。
とくに勉学に関しては、「前もってやれば、もっといい結果が出せる」という欲がありました。
子どもが気にもしていないことを、親が気にしても仕方がない。
子どもの問題と親の問題を冷静に切り離して考えられるようになったのは、子どもが高校生になってからです。
それまでは、わたしの短いものさしでアナタの行動を測っていました。
確かに、わたしは「結果よりも過程を重視する」タイプです。
そして、わたし以外の家族は皆「終わりよければすべてよし!」と考えるようです。
結果にこだわる人もいれば、努力の過程を評価する人もいます。
人それぞれですね。
アナタのボヤキは、改めてそれを気づかせてくれました。
そして、幼少期より前もって準備することに邁進してきたわたしですが、最近気になることがひとつ。
どんなに入念に用意したとしても、土壇場でうっかりミスをすることが多くなったのです。
完璧な買い物リストを作り、それを家に置いて買い物に出かけるのは、もはや定番。
出張先でUSBが見つからず、散々探した挙句、飴ちゃんの袋から出てきた
とか、
スマホと間違えてチューブのハンドクリームをバッグに入れた(だって同じ色だったから)
とか、
ミニポーチはカバンに入れたのに、サイフを入れ忘れた
とか。
これでは、ギリギリでも間に合うことの方がよほどマシと言えるでしょう。
もはや、笑いの域を超えてアナタたちに心配をかけていることもお詫び申し上げます。
準備を怠らないのはもちろんですが、最期まで気を引き締めていきたいと決意を新たにいたしました。
この記事を書いてから4年の月日が流れました。
「4年前の今日はこんなことを考えていたんだな」と懐かしさをおぼえます。
そして、4年経っても母娘それぞれの性格は変わっていません。
人の性格や生き方というものは容易には変わらないものだとしみじみ感じております。
子どもが小さいうちは、「将来社会で生きていけるようにこの子をしっかり育てなければ」という思いで、子どもの凹んだ部分を埋めることばかりに必死になっていたように思います。
大学生となり就活に励む歳になった娘の様子を眺めていると、凸部分も凹部分もひっくるめて一個人を形成しているのだと腹の底から実感できるようになりました。
彼女の凹んだ部分を埋めてしまったら、それはもう彼女ではないような気がするのです。
実家を離れて1人暮らしをしている娘ですが、直前にバタバタしている様子がLINEメッセージから垣間見えた時は、私の鼻から「フンッ!」という熱い息が漏れ出ることもありますが。
バタバタしながらもなんとかやりくりして、期日に間に合わせて、自分で満足できる結果をだしているのなら、親が口出しすることはなにもありません。
だって娘の人生なのだから。
彼女が生まれた時から、娘は娘、私は私なのです。
「だったら、凹んだ部分ばかりに捉われずに、もっと凸部分に目を向けていればよかった」と今更ながら思います。
たとえ我が子であろうと、自分以外の人をどうにか変えようと思っていたことの傲慢さに気づかれました。
人は人に影響を受けることはあるけれど、人に変えられることはない。
自ら変わることしかできないってことは自分を顧みればわかるはずなのに。
「子どもを丸ごと受け入れる」「まずは子どもを肯定する」なんて聞き飽きたフレーズだけど、そうとしか言いようがないってことを、育児も終わりかけた頃に理解するのは私だけではないような気もします。