人は生まれつき特性や能力に偏りがある
わたしは「誰でも生まれながらの特性を持っており、得手不得手がある。それが極端な人もいる」というスタンスで、子どもたちの役に立てる大人でありたいと思っています。
わたし自身も「過度に集中する」「ルールを守ることに厳しい」「完璧主義」などの傾向があります。
その特性が良い方に働いたときには「試験準備を怠らないまじめな学生」となり、集中する癖を制御し切れなかったときは「働き過ぎて体調を崩し周囲に迷惑をかける人」となります。
この過集中の特性から、興味を持ったことは比較的短期間で得意分野に持っていくことができます。
子どもを育てていた時には育児本を読み漁り、子どもが中学受験生だったときに国語指導に興味を持ち、調べては実践するを重ねるうちに国語教室を開くに至りました。
自分の特性を活かして仕事をしているわけです。
もちろん苦手分野もあります。
小学生のときから文系科目は得意ですが、理数系はずっと好きになれません。
また、会話の潤滑油となるようなお世辞が思いつかず、ストレートな物言いで周囲をヒヤヒヤさせることもあります。
ドッヂボールやバレーボールなど、相手を攻撃するボールが怖すぎて、幼少期はもちろん大人になった今でもそのような武器としてのボールを受けることができません。
誰だって多かれ少なかれこのような偏りを持って生まれるのではないでしょうか。
そして大人になるうちに自分の特性とうまく付き合えるようになるのだと思います。
また、その偏りには程度の差というものがあります。
そして「本人や周囲の人が困る程の不得手があるなら、困らないようにするために本人が努力したり、周囲がサポートしたりすればいい」と思います。
数字に対して苦手意識の強いわたしは、保険関係や経理などはその分野に強い夫に任せています。
ただ、学習に関しては人に任せきりにすることはできません。
「勉強はできないよりできたほうが良い」という価値観も一般的です。
たいていの親は我が子の学力に関心があり、子どもの能力をできる限り伸ばしたいと考えます。
そして親の思いと子どもの能力の差が大きくなればなるほど、「教育虐待」という言葉に象徴されるような、いきすぎた負荷を子どもにかけるようになってしまいます。
そこが難しいのだと思います。
この“芽”は勉強(英数国理社)の才能とは限らないのです。ここで親御さん側に大きな勘違いが始まることがあります。
どうしても、子どもは勉強ができるかできないかで評価をされてしまうことが多いため、勉強ができないのは、「親である私の責任」と考えてしまい、最初に出ている才能の芽である“双葉”が勉強分野と異なっていることを忘れ、別の芽を出そうと“種”をいじってしまうということがあるのです。
(本文より引用)
「やればできる」ことはたくさんあります。
でも、親が要求するレベルのことは、たとえそれが簡単そうに見えたとしても、その子には「頑張っているのにできない」ことなのかもしれません。
あるいは、親の求めているような方法では「頑張ることができない」のかもしれません。
国語の授業も同じです。
大人にしてみれば分かって当たり前の文章でも、子どもには分からないことの方が多いのです。
子どもの目線にたち、子どもの理解力に合わせて授業を進めなければ、たちまち授業はつまらないものになってしまいます。
子どもたちの表情に「???」が見えたら、対応を変えなければなりません。
教える側の要求レベルと子どもたちの能力とのバランスを見極めることが大切なのです。
相手を無視して押しつけるばかりでは、学力は伸びません。
勉強は楽しいはずなのに
今まで知らなかったことやわからなかったことが理解できるようになるのは楽しいことであり、勉強も本来はそうであるはずです。
でも、「ゲームやYouTubeは面白いけど、勉強は楽しくないしやりたくない」という子もいます。
なぜ「勉強は楽しくない」のかというと、「頑張っているつもりなのにできない」「できなくて叱られる」といった負の体験を積むからです。
自発的に取り組んだわけでなく、押しつけられている感が強いうえに、理不尽に怒られることが続けば嫌いになるのも仕方ありません。
また、ゲームであれば手軽に得られる達成感が、勉強となると努力しなければ感じることができません。
人には「理解力の差」があるので、同じ時間勉強をしたとしても成績に差がでてしまいます。
苦手なことほど、できるようになるためにはたくさん努力しなければなりません。
そして「やったのにできない」「考えてもわからない」頻度が高くなるほど、勉強に対するモチベーションはますます下がります。
そのうちに「勉強が嫌い、勉強は苦手」から抜け出せなくなる子もいます。
どうしてそこまで「勉強が苦手」になってしまうのでしょうか。
勉強の苦手度合いにも差がある
国語力は「読解ができる=文章を理解できる」という点で、あらゆる学力の土台です。
単純な計算問題や、歴史の年号や英単語の一問一答なら読解力はいりません。
でも、算数の文章題も、理科・社会の設問も、英語の長文読解も、問われている内容を理解するには読解ができねばなりません。
そもそも教科書や参考書に書いてあることが分かるためにも、読解力は欠かせないのです。
国語力の有無は、勉強全般に大きく影響します。
国語教室には「国語が苦手」な子どもたちが通ってくれています。
「国語が苦手」といっても、その苦手の度合いは様々です。
そしてその度合いの違いが、学校や塾での学びの差にもつながります。
今回は国語の苦手度合いを3つに分けて考えてみます。
苦手度合い1.「やればできる」ことは自分でやるだけ
算理社の成績がその集団(塾や学校)のトップクラスで、国語の偏差値だけが低い場合、国語教室に入塾してから比較的短期間で国語の成績も上がることが多いです。
授業態度も良く、勉強の仕方がわかっていて、家庭学習の習慣も身についている子がほとんどだからです。
(ただし極端に語彙力がなかったり、精神的に幼かったりする場合は、それらの点が伸びるのを待つ必要はあります)
やったらやった分だけが結果に反映されやすいため、勉強に対するモチベーションも高いはずです。
すべての科目がほどほどの子でも、学校の勉強についていけるのなら問題ないでしょう。
中学受験をする場合、志望校の合格レベルまで実力を引き上げる必要があるなら、「今やっている以上の何か」をプラスしなければなりません。
国語であれば、漢字力であったり、読みのスピードであったり、記述の正確さであったり。
テスト結果を詳細に分析して、欠けた部分に焦点をあてた特訓が必要です。
以上のように「やればできる」のであれば、あとは本人のヤル気と努力にかかっているわけで、対処のしようがあります。
まずは塾や家庭教師に言われたことをしっかりやることです。
ネットや教育本に書かれていることの大半は、「やればやった分だけの結果を得られる子」を対象としたアドバイスです。
「やろうと思ってもできない」こともある
ーおしゃべりしたりよそ事を考えたりして、授業に集中できない
―先生の説明を聞き逃し、今やるべきことがわからなくなる
ー計算問題や漢字テストなどは大丈夫だけれど、文章題となるとトンチンカンな答えが多くなる
ー長い文章を読むことができなくて、とくに国語の長文読解に対する苦手意識が強い
学校や塾など集団で学ぶ子どもたちの中には、このような困りごとを抱えている子もいます。
そうすると、やはり「勉強が苦手」になってしまいます。
「集中して勉強ができない」あるいは「やっているのにできるようにならない」場合はどうしたらよいのでしょう?
親御さんはもちろん、教育者にとっても一番心配なのは、このように勉強全般が極端に苦手な子だと思います。
そして、そのようなタイプの子どもたちは、想像以上に多いのではないかと思っています。
勉強全般が極端に苦手になる原因は2つあります。
発達障害ではないが適切な学習習慣が身についていない場合と、発達障害に起因する場合です。
(発達障害という言葉はインパクトが強いものですが、わたしは人の特性を大きく括って付けたラベルのようなものと捉えています。障害という言葉には拘りません。グレーゾーンという言葉も同じです。医学的には診断がつくものかもしれませんが、子どもに対するときは、障害の有無で一括りにするのではなく、個性を持ったひとりの人として向き合います)
苦手度合い2.発達障害ではないが手助けが必要な子
学校の国語の授業をふつうに受けてきたのに、読み書きが苦手。
「〇年生なら、これくらいわかるよね」という問題も間違える。
でも、発達障害の検査を受けるほどではない場合。
それは、低学年での勉強でつまずいてしまったために、当該学年の学習内容を理解できなくなっている状況です。
学習障害(とくにディスレクシア・読み書き障害)というわけではないけれど、学習習慣が身についていないまま学年が上がり、学校の勉強について行けない状態が慢性化しているのです。
こうなってしまったら、子どもだけの力で勉強の苦手を克服することは困難です。
今すぐに親がサポートして、基礎固めをすべきです。
以下の記事が大変参考になります。
【読める!書ける!~ すべての子どもが楽に読み書きを学ぶために ~】参考記事
第1部 読み書き能力を高め、定着させるための指導
2 補習や家庭学習におけるていねいな支援が必要な子どもへの指導
3 発達がゆっくりしているなど、当該学年での理解や定着に困難がある子どもへの指導
読み書きの技能の習得や定着に困難がある子どもたちの多くは、特異的な認知の特性からくる読み書きの困難があるのではなく、生活習慣・学習習慣の未確立や、言語発達など読み書きの技能の土台となる力の充実が十分ではないため、他の子どもたちと同じペースや同じ練習量では習得や定着が難しい子どもたちです。
「読み書き障害がある子どもではないか」と考える前に、「基本的には他の子どもと同じ内容をスモールステップで、ていねいに、繰り返して学習することが必要な子どもではないか」と考えてみることが大切です。(本文より引用)
苦手度合い3.発達障害・グレーゾーンと診断されたら
苦手度合いがあまりにも極端な場合、専門家に相談してなんらかの発達障害であることがわかれば、適切な療育支援を受けることができます。
でも、最近は診断結果がグレーゾーンだったというケースも多いと聞きます。
怠けているのではない、ふざけているわけでもない。
でも、つい授業に関係のないおしゃべりをしてしまうのです。
ついうっかりボンヤリしたり、聞き逃したりしてしまうのです。
そうなると「障害ではないのだから頑張ればできるはず」「努力が足りないからだ」「集中力を持て」「ちゃんと聞きなさい」といった根性論で子どもを責めがち。
その結果、その子にとって本当に必要な教育的支援が受けられないままになってしまう可能性もあります。
【読める!書ける!~ すべての子どもが楽に読み書きを学ぶために ~】参考記事
第2部 読み書きに著しい困難がある子ども
読み書きの技能の獲得や定着が困難な子ども(読み書き障害と考えられる子ども)も少数ながら存在します。
「できない」事実だけを集めても支援につながるアセスメント(事前予測・評価)には役立ちません。支援方策を具体化するときに役立つのは、むしろ「できる」事実(今できていること、このようにすればできることなど)です。
(本文より引用)
【発達障害の「グレーゾーン」診断レベルも見落とされやすいタイプのASD】参考記事
誰もがASDやADHDの素質を部分的に持ち、それが特技や仕事の向き不向きにつながるもので、「全てにバランスのとれた人はいない。そういう意味では、誰もがグレーといえる」。ただし、その素質のために社会生活に支障をきたしている場合は「障害」と診断され、必要な支援を受けることができるようになる。
グレーとされて何もしなかった子供より、適切な療育を受けた発達障害の子供の方が、数年後には落ち着いた生活を送れることもある。たとえグレーと言われても、子供が現に生きづらさを抱えているのは確か。療育を受けさせるなどして、生きていきやすい環境をつくることが大事だ。
(本文より引用)
【発達障がい?それとも個性?―「グレーゾーン」の子どもたち―】参考記事
「グレーゾーン」の子どもは、クラスに2〜3人は含まれているのではないか、という調査結果を紹介しましたが、現場の実感としてはクラスの1割ほどではないか……という声も聞こえてきます。こうした子どもが昨今多いように思えるのは、何か理由があるのでしょうか。
「グレーゾーン」の子どもに懸念されるのは、こうした二次的被害です。日常生活に支障がなければそれは個性であり、問題となりませんが、その特性が周囲との軋轢を生んだり、本人の単なる努力不足と見なされ、他人からの評価も自己評価も著しく下がる状態が続いたりすると、こころの健康を害する原因となります。彼らの視点に立った説明を受けないと本当に何が問題なのかがわからないまま、「どうせ自分はダメなんだ」と自信を失ってしまうかもしれません。こうした特性を持つ子どもに教えるときには、その子がいまできていないことを丁寧に確認し、子どもに寄り添いながら一緒に問題を解決するという姿勢を示すのが大切です。
(本文より引用)
こういうことはすべて、一見すると性格が悪い、しつけがなってないと思われてしまいます。けれどそれらは心の問題ではなく脳の特性によるものなので、叱っても強く言っても無駄です。
(本文より引用)
発達障害やグレーゾーンの子どもたちについて、さらに深く考えてみたいと思います。