子どもを取り巻く言語環境
近頃よく思うのは、昔と今では子どもを取り巻く環境があまりにも違う、ということ。
環境についてはいろいろな切り口で考察できますが、今回は言葉に関して考えてみました。
まず、核家族化が進み、年配の人の言い回しを耳にしたり、日本古来の風習に接する機会が減りました。
ご近所の目上の他人と話す機会が少なく、友達の親や先生とも友達感覚で話し、敬語で話すチャンスがないまま大きくなる子もいます。
昔は自然に耳にすることで増えていた語彙力も、今は意図的に覚えない限りなかなか身につかないようです。
1960年代に生まれ一家に一台黒電話の時代に育った私と、1990年代の終わりに生まれひとり一台ずつスマホを手にする娘たち。
一世代違うだけでも、こんなに世の中は変わるものかと驚きます。
登下校中や眠りにつく前に布団の中で小説を読みふけっていた中高時代の私と、スマホ片手に動画を眺めて自分の時間を楽しむ娘たち。
活字に触れる時間も圧倒的に違います。
簡易コミュニケーションツールが増え、手紙を書くことや固定電話で話をすることもなくなり、書き言葉や丁寧な日本語を使う機会も減りました。
一方、仲間同士で短文で意思疎通をはかる時間は確実に増えています。
主語を省略し、あいまいな言葉で事象や気持ちを表現しても、どうやら意図は通じ合っているようです。
現代の子は、短文を気軽に発信することができます。
あんなに短い言葉で気持ちを表現し、あんな速さで文字を打ち込むなんてことは私には到底できません。
回りくどい表現や丁寧な書き言葉は使わないだけに、要約力もあるのかも。
読めないのは子どものせいではない
このように考えると、昔の子どもに比べて今の子どもが国語の長文を読めないというのは、当然とも思えます。
国語で読まねばならない文章題は子どもたちに馴染みのない書き言葉で書かれていて、今風の話し言葉に翻訳されているわけではないからです。
見たことも聞いたこともない単語に出くわす確率も高くなります。
6年生の物語文に「スダレ形になでつけられた頭」という表現がありましたが、生徒さんは「スダレ」が何なのかがわかりません。
「バーコード」に言い換えて説明したら納得して笑っていたのですが…。なんというか、バーコードに言い換えてしまっては、作品そのものを深く味わう楽しみが半減してしまうのがもったいない。
「渇水」は「水が増えること」と勘違いしながら説明文を読んでいる6年生もたくさんいました。
まったく反対の意味なので話のつじつまが合わないのですが、それでも矛盾を感じなかったということは、深くは読んでいなかったのでしょう。
「スダレ形」も「渇水」も見たり聞いたりする機会があれば、既知の単語になります。単語の意味がわかれば正確に文章を読めるようになります。
やはり言葉を覚えることです
「まず単語を覚えること」これは外国語を学ぶときの基本ですが、今の時代にあっては母国語でも同じことが言えるのでは、と思った次第です。
語彙力を高めたいなら、書き言葉に親しみましょう。日常会話だけでは、足りません。
ちなみに国語のテストが、LINEニュースやYahoo!ニュースのような形で出題されたら、現代の子はずっと速く正確に内容を読み取れるのではないでしょうか。
紙に書かれた文章を縦に読むよりも、スマホの画面に横に並んだ文字を読む方が眼球もスムーズに動くのではないかと。
そんな日が来るかどうかはわかりませんが、ここしばらくは国語のテストは紙媒体で提供され、縦に書かれた文字を目で追い、シャープペンで答えを記入する形式のままです。
読者に語りかけるような軟らかい文章ではなく、硬い書き言葉をしっかりと消化できるよう、顎を鍛え胃腸を整えておきましょう。